500人からのDNA採取は許容されるか

中井委員長は、五百人からDNAを採取した警視庁の捜査について「この程度の捜査はする。(五百人が)多いと言われたら、捜査はできない」とし、警察内のルールで可能なDNA捜査は積極的に進めるべきだとの考えを示した。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2010052702000088.html


500人から任意にDNA資料の提出を受けて捜査に供することが許されるか。

原則,任意に出せばOK

刑事訴訟法には捜査機関に制約を加えて国民の権利を保護するという意義がある。


ここがポイントで,相手の権利を保護するための制度なのだから,相手が権利を放棄すれば別に保護する必要は無いということになる。
任意に物を預けてくれるなら預かっていいし,バッグの中を見せてくれるなら見ていい。いちいち差押令状や捜索令状を得て相手に示してという手順を経なくてもいい。そうなっている。
DNA資料の提出も,ごく疑わしい少人数に限れば,別段問題は無いだろう。

判例の立場

では,同意があれば何でも出来るか。
これは判例で明確に否定されている。
高輪グリーンマンション事件という著名なこの事件では,被疑者の同意を得て,警察署近辺のホテルに4連泊させて取調べが行われた。
結局この被疑者は起訴されて有罪判決を受けたのであるが,最高裁は次のように述べている。

任意捜査においては、強制手段、すなわち、「個人の意思を抑圧し、身体、住居、財産等に制約を加えて強制的に捜査目的を実現する行為など、特別の根拠規定がなければ許容することが相当でない手段」(最高裁昭和五〇年(あ)第一四六号同五一年三月一六日第三小法廷決定・刑集三〇巻二号一八七頁参照)を用いることが許されないと- 3 -いうことはいうまでもないが、任意捜査の一環としての被疑者に対する取調べは、右のような強制手段によることができないというだけでなく、さらに、事案の性質、被疑者に対する容疑の程度、被疑者の態度等諸般の事情を勘案して、社会通念上相当と認められる方法ないし様態及び限度において、許容されるものと解すべきである。

最判昭和59年2月29日
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319115442322314.pdf


つまり,同意があってもやっちゃいけないラインがあるんですよと。
この事件では結論として違法な取調べではなかったけど,場合によっては同意があっても違法な取調べになりますよと。そう言ってる判例です。



自室に上がりこむとか,連泊させて取り調べるといった行為は,同意があったとしても,一般的には権利侵害の度合いが高いと言える。抽象的には,無理強いされるという危険も存在する。ごり押しで立ち入られたり,事実上の身柄拘束が起きる危険が存在するのである。


その懸念から,一般的に権利侵害の度合いが高い行為は,具体的場面で同意があったとしても,許されないと考えられているのである。
だから,部屋に上がりこむには同意があっても令状を得るべしとされているし,連泊させるぐらい取調べの必要性があるのなら,逮捕状を請求するべきなのである。
捜査機関vs対象者という関係に裁判所&法令という制約を加えることで権利保護の実効性を高めようという考えなのである。

犯罪捜査規範第108条
人の住居又は人の看守する邸宅、建造物若しくは船舶につき捜索をする必要があるときは、住居主又は看守者の任意の承諾が得られると認められる場合においても、捜索許可状の発付を受けて捜索をしなければならない。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S32/S32F30301000002.html

家宅の承諾捜査や女子の身体検査は憲法・刑訴法上絶対に許されないものではないが,通常,任意の承諾が得られるとは間がにくい場合である。規範はこのような任意の承諾が得がたい場合を類型化して,これを行うことを避け,捜査を適法に行おうとするものである。
渡辺咲子・「任意捜査の限界101問三訂24頁」・立花書店

任意捜査の限界101問 三訂第二版

任意捜査の限界101問 三訂第二版

実質的に強制になる懸念

では,500人からのDNA資料の採取はどうなるか。
捜査の面から有効であることは言うまでもなくて,今回のようにしらみつぶしに採取すれば検挙に向けて大きく前進する可能性がある。
極端な話,全国民のDNA情報を捜査機関が握っていれば捜査の実効性・正確性は断然高くなる。


他方で,DNAはプライバシーそのものという性質を有している。事実上その個人以外ではありえない固有の情報だからだ。後ろめたいことが無ければ出して当然という人もあれば,できるだけ秘匿したいという人もいるだろう。後者は,当然保護に値する権利だと考える。

しかし,大勢が提出に同意してるのに同意しないとなると,嫌疑は高まる。
それゆえ,渋々同意せざるを得なくなる。無実でも。つまり事実上の強制である。
これは上の高輪グリーンマンション判決や学説が懸念する事態そのものである。

犯人の絞込みには有効だとはいえ,一般市民が権利放棄を事実上強いられるような捜査手法が,果たして妥当だろうか。

500人からの採取は法が想定してないのでは

警察庁はDNA資料の扱いについて諸々の要件を通達で定めている。

警察庁の訓令・通達(「DNA」で絞り込むと関係する通達4件あり)
http://www.npa.go.jp/pdc/notification/index.htm


しかし,これらは被疑者を対象として採取する場合の基準である。今回のように500人から任意に採取するケースについては直接の規定が存在しない。(ネットで検索する限り)
被疑者が500人にも及ぶというのは通常考えられず,関係が薄かろうがしらみつぶしで捜査すればiいい,今後の別事件の捜査にも活用しようという考えが伺える。(もちろん悪気は無いのだろう)
確かに,刑訴法は差押という強制処分では必要性を要件としているが,任意提出の場合は必要性を要件としていない。ゆえに,形式的には網羅的にDNAを採取しても違法ではないということになるのだろう。

刑事訴訟法
218
検察官、検察事務官又は司法警察職員は、犯罪の捜査をするについて必要があるときは、裁判官の発する令状により、差押、捜索又は検証をすることができる。この場合において身体の検査は、身体検査令状によらなければならない。

第221条
検察官、検察事務官又は司法警察職員は、被疑者その他の者が遺留した物又は所有者、所持者若しくは保管者が任意に提出した物は、これを領置することができる。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO131.html


ただ,前述のように任意捜査にも限界が存在するのである。
500人もの対象者からDNAを採取することが,判例のいう「事案の性質、被疑者に対する容疑の程度、被疑者の態度等諸般の事情を勘案して、社会通念上相当と認められる方法ないし様態及び限度」という要件を満たすのであろうか。
事案は殺人罪で重大である。
しかし500人に嫌疑があるという事態は普通ありえない。
社会通念上どうなのか不明であるが,少なくとも国会による審議を経た法律ではなく捜査機関内部のルールなので,社会通念を直接に反映しているという手続き的担保が無い。

また,判例は泊り込みを問題としているのに対し,今回はDNAの網羅的採取である。
対象者の多さ,DNA情報の要保護性の高さからすると,判例の形成を待たずに立法で厳格な基準を設ける必要があるのではないか。

例えば,犯罪の重大性,DNA採取という方法を取る必要性,対象者の最小限性,といった縛りを設ける必要があるのではないか。
これとて,捜査の遂行を甚だ妨げるものではないし,人権保護の見地から法律で明確にしておいて然るべきだと考える。