天皇の命日に皇居近辺で天皇制に反対することは許されないのか

8月6日の原爆記念日広島市で、前航空幕僚長田母神俊雄氏が「ヒロシマの平和を疑う」と題した講演会を予定していることがわかった。秋葉忠利市長は29日、「被爆者ら市民の心情に配慮して日程変更を検討してもらいたい」とする要請文を、田母神氏と講演会を主催する「日本会議広島」に送った。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090630ddm041040062000c.html

id:Prodigal_Son氏のエントリとそれに対する私のブコメ

こんな無神経のきわみな講演は変更要請されて当然でしょう

http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20090630/1246342296

id:sube-sube 必ずしも被爆者を不快にさせる内容でもなく、カルデロン事件のように私生活領域でもない場での表現すら排斥するのは、まさしく言論の自由の冒涜だと俺は思うし、書いてる人が人だけに根が深い
http://b.hatena.ne.jp/sube-sube/20090701#bookmark-14306803


日程変更を求めるだけでも弾圧になるのか。
結論から言うと、なり得ます。
弾圧という言葉は多義的なので、ここでは「表現の自由に対する制約として今回の要請は許容されるか」という観点からの私の見解を示します。

要請の意義

まず、要請の段階では強制力はありませんが、表現活動に対する制約であることは疑いありません。
市長名で文書化し、マスコミにも公開するのであれば、当然圧力となるからです。
制約の強度としては検閲には遠く及びませんが、軽微抽象的な段階でも入念にチェックしなければならないというのは表現規制に関しての共通認識であると考えます。

表現の日時の意義

表現の日時が重要な意義を持つ場合に、その日時での表現を禁じることは、表現そのものを禁ずるに等しい効果を持つ場合があります。
メーデーの集会は5月1日に、沖縄慰霊の日は6月23日にやることに意義があります。

広島に原爆が投下された日に原爆や安全保障について議論するのも同様で、その日に行うことに意義があるのでしょう。
ですから、その日の開催を難しくするような圧力は問題視すべきなのです。

規制の許容限度

他方、行政には国民の衝突を予防・調整する機能も求められています。
一定の場合には日程変更を求めることも可能ですし、場合によっては表現自体を禁じることも不当でない、ということがあります。

例えば、武力闘争を旨とする政治団体がイベントを開催する場合です。日常的に殺し合っているような対立組織の一方がイベントを挙行し、他方が押し掛けて大混乱が予想されるといった場合には、施設の使用を不許可としても正当です。表現の自由に優越する利益が認められるからです。
逆に、主催者が穏健で危険の原因がもっぱら対立組織にある場合には、不許可は許されません。正当な表現活動が暴力に屈する形になるからです。

このように、日程変更を求めることが弾圧か否か、という問いに答えるには、変更を求める根拠を具体的に検討しなければなりません。
判例の基準を挙げるなら、他害性、その重大性、発生の明白性ないし切迫性、といった要素を満たす必要があります。

本件で衝突の危険性があるか

本件で、主催者の日本会議はガチガチの保守で、対外的には武力闘争をよしとしていますが、日常的に対立団体と武力衝突するような前歴はありません。また、衝突が予想されるようなテーマでもなければ攻撃を予告する組織も見受けられません。

被爆者の権利を害する危険性があるか

被爆者7団体が抗議していますから、核武装論が被爆者にとって不快であると一応言えるでしょう。
しかし、言論の衝突が感情の軋轢を生むのは当然ですから、不快というだけで一方を規制することは出来ません。
不快さの性質として、被害者感情や遺族に対する追慕の念といった侵しがたい感情を害されるのか、自明ではないと私は思います。政策論と感情論は一応峻別できるものだからです。
また、会場はメルパルクの建物内です。路上でのデモ行進や屋外での集会と違って、見たくない者が視聴を強いられる態様ではありません。また、被爆者を攻撃する内容でもありません。
この点、カルデロン家周辺で行われたデモ行進と性質が異なります。

つまり、権利侵害という危険の重大性、明白性といった要件を満たすか疑問です。

なお、会場が原爆ドームに近いことはこの危険性を高めると言えます。
しかし、原爆ドームに近くないと講演の意義が薄れるという面があります。最初に述べた日にちの問題と同様です。
相互に意見が対立する団体が、共通の象徴的場所を独占したいのは当然ですから、近づけば近づくほど相互に不快感を覚えるのは当然でしょう。
しかし、それは自由な表現活動のために受け入れるべきであると私は考えます。
象徴的事件の現場周辺では一定の主張しか許されない、という事態が健全であるとは思いません。
911の現場で主戦反戦一方の主張しかできないという事態が健全でしょうか。

結論

要するに、今回の市長の要請には、表現規制に必要となる他害性、重大性、明白性、といった要件が不十分なのです。「弾圧」とまでは言えませんが、表現活動に対する不当な制約だと私は考えますし、この要請を当然視する人の多さに、表現の自由はそこまで軽いものなのかと衝撃を禁じえません。あるいは、私が被爆者感情に鈍感すぎるのでしょうか。



立場を変えて、天皇の命日に皇居近辺で天皇制に反対することは許されないのでしょうか。